吉本興業ホールディングス株式会社(よしもとこうぎょうホールディングス、英: Yoshimoto Kogyo Holdings Co., Ltd.)は、マネジメント、プロモーター、テレビ・ラジオ番組製作、演芸の興行などを行う企業グループ・吉本興業グループの持株会社。, 大阪府大阪市中央区(登記上の本店)と東京都新宿区に本部を置く。通称「吉本」、「よしもと」。, 1912年4月1日の創業以来、2007年9月30日までは日本の芸能プロダクションで、95年半のもっとも古い歴史を持っていたが、2007年10月1日から持株会社制へ移行し、同社の事業部門は、よしもとクリエイティブ・エージェンシー、よしもとデベロップメンツ、よしもとアドミニストレーションにそれぞれ分社化され、「吉本(よしもと)」を名乗る芸能プロの歴史は、よしもとクリエイティブ・エージェンシー[注釈 1]に引き継がれた。, かつては吉本興業として東京証券取引所に上場していたが、2010年に上場廃止。その後TOBが行われ、在京・在阪の主要民放局などが主要株主となっている。, 明治末期の創業以来100年以上にわたり、古くは初代桂春団治、横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼から、現在の明石家さんま、ダウンタウン、今田耕司、東野幸治、雨上がり決死隊、ナインティナイン、ロンドンブーツ1号2号らに至るまで、東西の多くの人気芸人を輩出してきたお笑い界・演芸界の名門。テレビ番組制作、劇場、芸人養成スクールを手がけ、お笑い芸人のマネジメントでは圧倒的強さを誇る。, また戦前は、巨人軍を他社と共同で設立して草創期のプロ野球界を支え、戦後は日本プロレス協会を立ち上げて力道山をスターにし、近年はスポーツ選手のマネジメントを数多く手がけるなど、スポーツ界とのつながりも深い。もともとは全国で寄席・劇場・映画館経営を手がける興行会社であり、戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と称された。東京の二大落語家団体のひとつ、落語芸術協会の創設者でもある。現在は芸能プロダクションを中心とし、テレビ番組制作会社、CS放送やケーブル・テレビ向けのテレビ局、不動産事業などを傘下に抱える業界最大手の複合企業である。「お笑いの総合商社」「日本最大の芸能プロ」と言われ、芸能界における絶対的な権威から今や「吉本なしでは、番組が作れない」とまで言われる。, 創業者の姓をとり「吉本」と名乗っているが、現在はオーナー経営ではない。大株主にはフジ・メディア・ホールディングス、電通、BM総研(ソフトバンクの完全子会社)、大成土地(創業家の資産管理会社で、吉本、林両家が40%ずつ、吉本興業が20%の株を持っている)、大成建設などが名を連ねている。銀行系列は特にないが、旧大和銀行系の大輪会に参加している。現在もりそなHDとの関係は続いている。梅田の大地主として知られ、現在はダイヤモンド地区に高層ビルを構える吉本家(本家末裔の五郎右衛門がオーナーの吉本グループと、分家の末裔であった晴彦が元オーナーである大阪マルビル)とは、資本・人材ともに無関係である。, 芸能事務所としては初めて証券取引所に株式を上場したが、「安定株主の下で経営を行いたい」との意向から、2009年9月11日、クオンタムリープ・放送局・創業家資産管理会社など14社が出資する投資会社「クオンタム・エンターテイメント株式会社」(吉本興業の株式を取得および保有することを主たる目的として、2007年4月22日設立。代表はクオンタムリープ代表の出井伸之)によるTOBを実施し、株式上場を廃止する方針を発表。事実上のマネジメント・バイアウトを実施した。, 2019年6月に開催された定時株主総会での了承を得て吉本興業ホールディングス株式会社に商号変更[1]。, 創業は1912年4月1日。始まりは吉本吉兵衛(本名:吉次郎、通称:泰三)・せい夫婦が大阪市北区天神橋にあった「第二文芸館」を買収し、寄席経営を始めたことであった。翌1913年1月には大阪市南区笠屋町(現・大阪市中央区東心斎橋)に吉本興行部が設立される。1915年には傘下の端席のほとんどを「花と咲くか、月と陰るか、全てを賭けて」との思いから「花月」[注釈 2]と改名し、花月派(無名落語家や一門に属さない落語家、色物などの諸派)を結成。吉兵衛・せい夫妻は、桂派、三友派の二大勢力の争いが三友派の勝利にほぼ確定していた1921年に、非主流の浪花落語反対派と提携して勢力を伸ばし、のちに反対派を吸収。そして翌年、三友派の象徴ともいえる寄席「紅梅亭」を買収して三友派も吸収。上方演芸界全体を掌握することになる。しかし、1924年に泰三が急性心筋梗塞(脳溢血説もあり)で死去し、若き未亡人せいが経営を背負うことになるが、せいの2人の弟の林正之助が大阪で、林弘高が東京で活躍し、大過なく経営を続けることができた。その後、大正時代には大阪だけでも20あまりの寄席を経営し、京都、神戸、名古屋、横浜、東京などにも展開していた。, 当初は当時の林正之助総支配人が「ラジオでタダで芸を聞かせたら寄席に客が来なくなる」として、専属芸人のラジオ(当時のJOBK・大阪中央放送局)出演を堅く禁じていたが、1930年12月7日に落語家・初代桂春団治がその禁を破ってJOBKに初出演。吉本は禁を破った春団治の寄席出演を堅く禁じたが、その後しばらくして春団治が寄席に復活した途端に客が押しかける様子を見て、専属芸人を放送番組に出演させることが結果として自らの営業利益につながることを知り、1934年5月4日にJOBKと吉本は和解を果たした。1930年には漫才(当時の万歳)専門の寄席小屋「南陽館」を開館、当時としては破格の値段10銭という安い入場料で横山エンタツ・花菱アチャコ、芦乃家雁玉・林田十郎、桜川末子・花子、都家文雄・静代、秋田Aスケ・Bスケらが出演し人気を博す。, また大正末期より、東京・横浜への進出を開始し、1922年1月には神田の寄席「川竹亭」を買収して「神田花月」として開場、同年5月には、横浜伊勢佐木町の寄席「新富亭」を手に入れている(翌年「横浜花月」と改称)。昭和に入ると、浅草公園六区の興行街への進出に本腰を入れ、「昭和座」「公園劇場」「万成座」を次々と手に入れた。1935年11月には東京吉本の本拠地となる「浅草花月劇場」をオープンさせている。また1932年3月1日に吉本興行部を改組する形で吉本興業合名会社が発足すると、正式に東京支社を開き、林弘高が支社長に就任した。以後、大阪吉本を林正之助が、東京吉本を林弘高が率いる体制が確立する。同年には「漫才」の名付け親として知られ、のちに同社の社長にもなった橋本鐵彦、1934年(昭和9年)には漫才作者として名高い秋田實が入社した。, 東京吉本は伝統的演芸路線を取る大阪吉本と異なり、徹底したモダン・ハイカラ路線を打ち出した。「浅草花月」オープン時には流行歌手の東海林太郎やタップダンサーのマーガレット・ユキを出演させ、映画を上映し、レビューの「吉本ショウ」を上演している。専属のバンドと歌手、30人以上のダンサー・チームを抱える「吉本ショウ」は、やがて「浅草花月」の目玉となり、ここからのちに 川田義雄、坊屋三郎、益田喜頓、芝利英による、ボーイズの元祖「あきれたぼういず」が誕生した。「あきれたぼういず」以外にも当時の東京吉本は、柳家金語楼、柳家三亀松を筆頭に、石田一松、永田キング、木下華声(元2代目江戸家猫八)、松井翠声、伴淳三郎ら多くの東京の人気芸人を専属に抱えていた。タップダンサーの中川三郎や姫宮接子、元祖外国人タレント・ミス・バージニア、喜劇王「シミキン」こと清水金一、コメディアンの堺駿二(堺正章の父)、木戸新太郎(キドシン)、泉和助、杉兵助[注釈 3]も当時、東京吉本に所属していたことがある。, 東京吉本を率いる林弘高は欧米の視察経験もあり、当地のエンターテイメント事情に明るく、吉本を色物主体の演芸会社から、ジャズやタップ・ダンス主体のバラエティ・ショーを主軸とする興行会社へ近代化させようとした。ジャズ評論家の瀬川昌久によれば、当時東京吉本の文芸部にはサトウ・ハチローや阿木翁助など多士済々の作家陣が在籍していたが、中でも長年「吉本ショウ」の脚本を手がけていた岩本正夫は、早稲田大学文学部出身で、英語にも堪能であった。そして松井翠声がアメリカのミュージカル雑誌の切り抜きを始終持ってきては、岩本がこれを翻案し、さらには新しい欧米映画を何度も見てネタを拾っては、脚本を書いたという。1940年には、谷口又士をリーダーとして「吉本スイング・オーケストラ」が結成され、浅草花月の舞台に登場するが、これも当時アメリカのショー・ビジネスを見学した林弘高が、ちょうど結成されたばかりであるスパイク・ジョーンズのコミックバンドを見て感激し、その日本版を狙ったといわれる[4]。, またこの時期吉本興業は、スポーツや映画といった演芸以外の分野にも積極的に進出している。1934年には、正力松太郎の音頭の下、京成電鉄や東芝などと共同出資して、プロ野球球団の「大日本東京野球倶楽部」(のちの東京巨人軍、現・読売ジャイアンツ)を設立。林正之助を球団の役員に送り込んでいる。また1933年には、吉本の社内に映画部を設立。1935年には、映画会社東宝の前身のひとつであるピー・シー・エル映画製作所(PCL)と、さらに翌年東宝映画配給と提携し、1936年には林正之助が東宝映画配給の取締役に就任している。こうして横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼ら吉本所属の喜劇人の映画が、続々と東宝から封切られることになった。また、本業の演芸部門でも東宝との合弁企業・東宝演芸を東京に設立し、東京での演芸興行にも一層注力することになった。その一方で当時三大興行資本と言われた松竹・東宝・吉本のうち、東宝と吉本が急接近したことは、松竹を刺激し、松竹傘下の新興キネマによる、後述の吉本芸人の引き抜き騒動を引き起こすことにもなった。, この1935年前後が、戦前の吉本興業のもっとも華やかな時期だったと言えよう。東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の6大都市に47館の直営劇場・寄席・映画館を所有し、所属の芸人数は約1,300人に上った。プロ野球の球団経営(巨人軍)や映画製作を手がけ、1938年には大阪名物と謳われた新世界の通天閣を買収した。一方、寄席の舞台や映画のスクリーンでは、横山エンタツ・花菱アチャコ・柳家金語楼・柳家三亀松・川田義雄の吉本の5大スターが人気を競った。ちなみに戦前の吉本でもっとも高給を取っていたのは、金語楼と言われている。, しかし1939年には、吉本を揺るがす大事件が起きる。いわゆる「新興引き抜き騒動」である。松竹が傍系の映画会社新興キネマに演芸部を設立させ、吉本の人気芸人を引き抜きにかかったのである。その背景には、前述のように当時の三大興行資本のうち、東宝と吉本が急接近したことに松竹が反発したことがあった。当時引き抜きに応じて吉本から新興キネマに移籍した芸人は、大阪吉本では、漫才コンビのミスワカナ・玉松一郎、松葉家奴・松葉家喜久奴、西川ヒノデ・サクラなど、東京吉本では、川田義雄を除く「あきれたぼういず」、東京漫才の若手・香島ラッキー・御園セブンなどであった。川田が吉本に残留したのは、当時「吉本ショウ」の踊り子・桜文子と結婚したばかりであり、その媒酌人を林弘高・東京支社長に引き受けてもらったために、吉本に恩義を感じていたからと言われる[5]。結局川田は、新たに音楽ショウ「川田義雄とミルク・ブラザース」を結成し、「地球の上に朝が来る」のテーマ・ソングで人気の巻き返しを図った。またミスワカナの抜けた穴を埋めるために、1942年(昭和17年)、旅回り一座からのちのミヤコ蝶々がスカウトされ、吉本入りしている。, 1937年の日中戦争の開始、1941年の太平洋戦争の開始と戦時下の締めつけの強化は、吉本の展開にも暗い影を投げかけていった。当局の台本への検閲が厳しくなり、レビューへの風当たりもきつくなっていった。1941年には、「吉本ショウ」は「吉本楽劇隊」と改称させられている。, 吉本は一方で、当時の国策に協力することで、戦時下を乗り切ろうとした。1938年からは、大阪朝日新聞(現・朝日新聞大阪本社)と協力して「わらわし隊」という戦地慰問団を結成し、エンタツ、アチャコ、金語楼、三亀松ら自社の人気芸人を続々と中国大陸に派遣した。また1941年(昭和16年)、情報局や大政翼賛会の主導により「日本移動演劇連盟」が設立されると、「吉本移動演劇隊」を結成してこれに加盟し、全国を巡演した。さらには映画製作においても、金語楼主演の『プロペラ親爺』(1939年)のように国策に沿った喜劇映画を数多く製作した。そして1943年、当時所有していた大阪の通天閣が出火で焼けると、復旧工事を止めて通天閣を解体し、政府に軍需資材として献納した。, 他方で、戦争が泥沼化し、本土への空襲も始まると、吉本は物的・人的にも大きな打撃を被ることになった。1945年3月の東京大空襲では、神田花月と江東花月が焼失。神奈川県下に所有していた劇場も度重なる空襲ですべて失い、関東地区における吉本傘下の劇場で終戦時に残ったのは、浅草花月劇場、浅草大都劇場、銀座全線座の3館のみであった。地元大阪でも、相次ぐ空襲で、本社をはじめ、所有していた寄席や劇場、映画館のほとんどが瓦礫と化した。また出征していった所属芸人の戦死にも見舞われた。こうした混乱もあり、吉本興業は終戦直前に花菱アチャコを除く全所属芸人との専属契約を解消するに至った(同時に会社に借金がある芸人についてはその借金を棒引きしている)。ただし専属契約の解消時期については「戦後の1946年 - 1947年ごろ」とする見解もある。1946年秋に大阪で行われた5代目笑福亭松鶴主催の落語会に2代目桂春団治が出演しようとした際、本番直前に会場に林正之助が現れ出演を差し止めた現場を3代目桂米朝が目撃しているため、この時点でまだ専属契約が有効であったとする評論家もいる[6]。いずれにせよ、終戦直後の混乱の中での契約解消であったことがうかがえる。, 終戦後、吉本興業は演芸による復興をあきらめ、映画の製作と上映に活路を見出すこととなった。そして1948年12月に封切公開された大映映画『大島情話』(主演・坂東好太郎監督・木村恵吾)を皮切りに、次々と映画を製作していった。また所有していた寄席・劇場の多くも映画館に切り替えた。さらに1946年10月には京都で進駐軍専用のキャバレー「グランド京都」をオープン。こうしたいち早く時流の流れを読んだ吉本経営陣の読みは当たり、吉本興業の経営は軌道に乗っていった。1948年1月7日に吉本興業株式会社が発足している。1949年5月14日に大阪証券取引所(現・東京証券取引所)、1961年10月2日には東京証券取引所に上場した。その一方で、1950年3月14日には創業者の1人であり、芸人に「おせいさん」と呼ばれて慕われた吉本せいが死去した。, 一方、林弘高率いる東京吉本は、戦後の1946年10月、「吉本株式会社」として正式に大阪の吉本興業から分離独立した。銀座に本社とスタジオを構え、東京・横浜の劇場・映画館経営とともに、デビュー当時の江利チエミのマネジメントや力道山のプロレス興行を手がけていった。チエミの場合は、父親が戦前の「吉本ショウ」のピアニスト・久保益雄、母親が喜劇女優・谷崎歳子であり、両親ともに東京吉本の所属だった。さらに1946年11月には、映画会社東映の前身のひとつ、「太泉映画」を設立。東京練馬区大泉に映画スタジオを創設して、『肉体の門』(主演・轟夕起子、監督・マキノ正博/小崎政房)など数々の映画を製作した。また戦後の「浅草花月」は、浅草公園六区のほかの劇場と同様、ストリップや大江美智子の女剣劇を上演する一方、引き続きトニー谷、由利徹、海野かつを、ショパン猪狩(のちの東京コミックショウ)ら、多くの東京の芸人を出演させ、人気を博した。, しかし浅草公園六区の興行街のその後の急速な斜陽化は、「浅草花月」をはじめ多くの劇場・映画館を当地に持っていた東京吉本をも襲うことになる。東京吉本こと「吉本株式会社」は業績が悪化し、最終的には会社更生法の適用を受けるに至った。, 他方、映画館経営を主軸としてきた大阪の吉本興業は、昭和30年代に入ると、テレビの隆盛と映画の衰退を見据えて演芸部門を復活させることになった。落語や漫才の主力芸人は戦後いち早く演芸を再開した松竹系に取られていたため、コメディを中心にすることにし、それをテレビで中継させて客を呼ぶ作戦に出た。いわばテレビ時代のビジネスモデルを目指したわけである。そして1959年3月1日、手持ちの映画館を演芸場に改装してうめだ花月として開場、演芸再開に乗り出した。演目は花菱アチャコ主演の吉本ヴァラエティ「迷月赤城山」であり、うめだ花月開場と同時にテレビ放送を開始した毎日放送と提携し、同社に舞台中継させた。当初は所属芸人がおらず、佐々十郎、茶川一郎、大村崑、芦屋小雁といった東宝系のコメディアンや、中山千夏、雷門五郎といった既存のスターのほか、千日劇場の芸人をレンタルしたり東京からの客演で凌いだ。その後、吉本興業は、直営の映画館を演芸場に改装するかたちで、1962年(昭和37年)には京都花月を、翌1963年にはなんば花月を開場。吉本ヴァラエティは、1962年には吉本新喜劇と名前を変え、白木みのる、平参平、ルーキー新一、花紀京、岡八郎、原哲男、桑原和男、財津一郎らスターを続々と生み出していった。, 昭和40年代には、落語や漫才でも吉本所属の若手芸人が育ち始め、メディアと連動する形で若者の人気を得ていった。まず若手落語家の笑福亭仁鶴がABCラジオの深夜番組で人気を得、続く毎日放送の番組「歌え!MBSヤングタウン」(ラジオ)「ヤングおー!おー!」(テレビ)で、同じ吉本所属の若手落語家・桂三枝(現・6代桂文枝)が人気者となった。さらにこのころより、横山やすし・西川きよし、コメディNo.1ら吉本所属の若手漫才師も、「ヒットでヒット バチョンといこう!」(ラジオ大阪)「爆笑寄席」(関西テレビ)といった番組の出演により、若者の圧倒的支持を受けるようになっていった。こうした売れっ子芸人でも花月劇場チェーンには欠かさず出演したため、花月劇場の観客動員にも一役買った。こうしたメディアミックスを多用した手法で、所属芸人とともに吉本自体も急成長していったのである。一方で特筆すべきは、高山正行を看板スターとした「王将太鼓」という日本芸能界初の和太鼓集団を大阪の新しい名物として売り出しに全力を注いでいたことである。, また、あまり知られていないが1972年にヒットした「宗右衛門町ブルース」(平和勝次とダークホース)を発表したのがうめだ花月であった(当時はコミックバンドの歌謡曲や演歌が流行した)。, このように吉本興業は落語・漫才・コメディの分野で若い人気芸人を次々と輩出していった一方で、ライバルの松竹系の松竹芸能は老齢の重鎮クラスの芸人が多く、世代交代が進まなかったこともあり、昭和50年代に入ると、上方演芸界の主導権は再び松竹系から吉本興業へ移っていった。特に1980年の漫才ブームで、ザ・ぼんち、島田紳助・松本竜介、明石家さんまら吉本興業から全国区の若手人気芸人が続々と出た一方、松竹芸能は春やすこ・けいこを除くと全般的にブームに乗り遅れたことで、それは決定的になったと言える。以後吉本興業が上方の演芸界を支配する構図が、今日に至るまで続いている。, そして吉本興業は1980年、木村政雄を所長として東京連絡事務所(のちに東京支社、さらに東京本社に格上げ)を設置、東京吉本の再興にも乗り出した。1980年代は純粋な東京吉本出身の芸人は野沢直子ぐらいであったが、1990年代以降、吉本が「銀座7丁目劇場」「渋谷公園通り劇場」「ルミネtheよしもと」「神保町花月」「よしもとプリンスシアター」と次々と東京に劇場をオープンさせたことに加え、吉本総合芸能学院(NSC)の東京校が開校したこともあり、ロンドンブーツ1号2号、ペナルティ、品川庄司、ロバート、インパルス、森三中、オリエンタルラジオなど、東京吉本出身の芸人が続々と育ち、2000年代あたりからテレビを席巻しつつある。現在、東京吉本は、新宿区新宿(花園神社隣)に本社ビルを構え(2008年に神田神保町から移転)[7]、所属の芸人数、社員数、売上高などから見ても、大阪吉本と肩を並べる存在である。, さらに吉本興業は1980年代末以降、名古屋、福岡、札幌、広島に支社または事務所を続々と開いていき、地方のテレビ局への食い込みを図るとともに、ローカルタレントの育成にも乗り出した。岡山や仙台のように撤退することになった地方もあったが、そうした地方の吉本所属のローカルタレントの中から、札幌吉本出身のタカアンドトシ、アップダウンや福岡吉本出身の博多華丸・大吉、バッドボーイズのように、全国区で活躍する者も出てきている。, 吉本興業は、直営劇場を東京に2つ、大阪に3つ、さらにテレビ番組収録用のホールを東京・大阪に各1つ持つにいたり、所属タレントは約800人という陣容になった(2008年秋に大阪にさらに劇場を新設)。全国に直営劇場・寄席・映画館を47館持ち、所属芸人は約1,300人という戦前の全盛期(1935年ごろ)にはいまだ及ばないものの、依然として総合娯楽産業の雄であることは言を俟たない。, また芸人だけでなく、一般の社員の採用、育成に力を入れている。さらに、興行以外にも多くの事業を展開していることから「総合娯楽産業の中心」という見方があり、就職先としても人気が出ている。ただ、「社員になれば芸能人に近づける」という動機での志望者も少なくなく、新入社員説明会には冷やかしの参加者が増えたためか、有料化したこともある。, 社員教育は徹底しており、マネージャーはあくまで所属芸人のマネジメントをする人間であって、付き人ではないという考えから、荷物持ちなどの雑用はしないようにと厳命している。また、弟子を持っている芸人・タレントに対して師匠と呼ぶことも禁じている。, 積極的な事業展開が目立つのも特徴である。2005年には、吉本興業やフェイス、ファンダンゴ、インテルなどが出資する戦略グループ会社として、株式会社ベルロックメディアを米国に設立。同時に日本法人も立ち上げ、日米でメディアの多様化にあわせ吉本グループのコンテンツを活かした新たなビジネスモデルを構築しつつある。2010年代以降はNetflixやAmazonプライムといったネット配信サービス向けオリジナル番組の制作・配信を積極的に実施している。, さらに、2007年10月1日には、持株会社に移行し、マネジメント・制作・営業統括部門を「株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー」、不動産賃貸・その他の事業統括部門を「株式会社よしもとデベロップメンツ」、経理・人事などの統括管理部門を「株式会社よしもとアドミニストレーション」にそれぞれ分社、ファンダンゴを株式交換で完全子会社化し、「株式会社よしもとファンダンゴ」としている。, 2008年、お笑い女性アイドルグループ・よしもとグラビアエージェンシー(YGA)を結成。のちにメンバー交代にともない正統派のアイドルグループへと方向転換した。, 2009年、アメリカ大手のエージェンシークリエイティヴ・アーティスツ・エージェンシー(CAA)と業務提携。また、同年、沖縄国際映画祭を協賛開催し、ゴリの監督作品を製作・上映。吉本は従来から、所属芸人が出演する映画の制作は行ってきたが、近年は松本人志作品をはじめとした「芸人監督」作品に力を入れている。, 2010年には、吉本興業と京楽産業の合弁会社であるKYORAKU吉本.ホールディングスが運営し、秋元康プロデュースによるNMB48が、東京・秋葉原のAKB48、名古屋・栄のSKE48に続く地域アイドルとして大阪・難波に誕生した。, 2014年に映画の製作・配給・宣伝を中心とした業務を扱う株式会社KATSU-doを設立。代表取締役に映画プロデューサーの奥山和由が就任[8]。, 2015年に、洋画の配給に進出することを発表。第1弾はマイケル・ファスベンダー主演の映画『マクベス』で、2016年夏公開予定[9]。, 2017年には吉本興業は国連が行っている「エスディージーズ」(SDGs)に参加・提携をして国連が取り組んでいる環境対策の取り組みに参加し、のちにこの活動が認められて「ジャパンSDGsアワード」で特別賞(SDGsパートナー賞)受賞した。, 2018年には、吉本興業はグラミン銀行の総裁の社会起業家のムハマド・ユヌスと共同出資で脱貧困と格差社会を減らすためのマイクロクレジットの会社(金融機関)のユヌス・よしもとソーシャルアクション株式会社(yySA)が創立をした。2018年(平成30年)3月28日はムハマド・ユヌスが来日して吉本とのマイクロクレジットの事業を行うように協力をした。ほかにムハマド・ユヌスに似たキャラクター・ユヌスくんが登場している。, 2015年9月1日付で資本金を約125億円から1億円に減資し、法人税法・租税特別措置法上の「中小企業」となった(家電大手のシャープは中小企業向けの税制優遇を受けようと検討したが、批判を受けて大企業とみなされる5億円にとどめた経緯がある)。吉本側は「取り崩した資本金は中長期的な投資に回す」と説明しているが、法人税や法人事業税、地方税の法人住民税、地方特別法人税、中小企業投資促進税制、中小企業等基盤強化税制など数々のメリットがあるとみられている[11]。なお、ここで言う「中小企業」とはあくまで税法面においてのものであり、税法以外の基準、たとえば中小企業基本法などの基準から見れば減資後も中小企業には該当せず、大企業に分類される[注釈 4]。, 長く上方演芸界の中心を担ってきており、多くの上方芸人を育てたこと、関西一円に寄席・劇場・映画館を多数持ち、集客効果を発揮して、周囲の繁華街の発展に寄与したことは、その功績として誰しもが認めるところである。さらには戦前、安来節を流行らせ、前述の初代桂春団治をめぐる放送番組の件や、京都の松竹と競合すると見るや新興資本の東宝と組んで漫才=演芸と映画を融合させるなど、今日のマスメディアとショービジネスの関連性をいち早く見抜き、メディアミックスの手法を取り入れて大いに活用し躍進した。一時は大阪・新世界の通天閣も購入し、隆盛を誇っていた。, とりわけ戦前の吉本の功績としては、漫才の近代化に積極的に取り組んだことが挙げられる。かつて漫才は「万歳」という表記であり、楽器を持った「音曲万歳」が主流であったが、昭和初期以降、吉本所属の横山エンタツ・花菱アチャコ(1930年・1925年にそれぞれ入社、1930年コンビ結成)をはじめとする演者、秋田實(1934年入社)らの漫才作家により、純粋に話芸のみで勝負するしゃべくり漫才を育て、これを漫才の主流とした。またそれまでの「万歳」の表記を、現代風に「漫才」と変えさせたのも吉本である。こうしたしゃべくり漫才化の動きはやがて東京の漫才界にも及び、現在に至っている。また戦後の吉本の功績としては、伝統的な大阪仁輪加の流れを受け継ぐ「松竹新喜劇」とは別に、東京・浅草のアチャラカ喜劇の流れを受け継ぐ「吉本新喜劇」(当初は吉本ヴァラエティ)を結成し、大阪に軽演劇というジャンルを根付かせたこともある(吉本新喜劇初期の出演者には、守住清、清水金一、木戸新太郎、財津一郎など浅草の軽演劇出身者も多く見られる)。その後、本場・浅草では軽演劇というジャンルがほぼ絶滅したのに対し、それが移植された大阪では形を変えながらも今日まで続いている。, 一方、吉本に対する評価が分かれるのは、上方落語に対する功罪である。とりわけ上方落語界のスターだった初代春団治が1934年に死去したあと、上方落語は一時絶滅寸前にまで衰退したが、その原因は戦前の吉本の漫才重視政策にあるとする関係者もいる。すなわち、前述のように戦前の吉本は「過度に」漫才に力を入れ、落語を軽視したために、それが上方落語の衰退を招いたと見るのである。実際漫才の興隆の前に、寄席の出番も減り、落語家からは廃業する者や自ら漫才師に転身する者が当時出てきたことは事実である。しかし戦前、吉本の幹部社員として漫才重視政策を推進し、戦後は吉本の社長も務めた橋本鐵彦は、演芸評論家・香川登志緒による聞き書きの中で、客を呼べる落語家が減っていったのが真の原因として、吉本が上方落語を衰退させたという説を全面的に否定している[12]。また東京の演芸評論家である矢野誠一も、当時の吉本の漫才重視政策が、上方落語の衰退を加速させたことは事実としながらも、当時の上方落語自体にも衰退する理由があり、吉本が上方落語を潰したとまでは言えないと結論づけている[13]。, 「吉本=大阪・お笑い」というイメージも強いが、先述のように、戦前は必ずしもそうではなく、前述の通り東京・横浜にも多くの寄席・劇場・映画館を所有し、柳家金語楼、柳家三亀松、川田義雄ら多くの東京の芸人を専属に抱えていた。戦後も、デビュー当時の江利チエミのマネジメントを手がけている(彼女の両親も東京吉本所属の芸人だった)。さらに戦前は球団経営(プロ野球の東京巨人軍)に参画し、戦後も映画会社東映の前身のひとつ、太泉映画を設立するなど、興行資本としての性格も強い(ちなみに戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と呼ばれていた)。, まず「功」の部分としては、大正末の関東大震災の際に、被災した東京の演芸界に対して積極的に支援の手を差し伸べたことが挙げられる。当時吉本の幹部社員が上京して、被災した芸人を直接訪ねて歩き、慰問物資を配って歩いたと言われる。さらには東京の寄席が壊滅状態となって出演の場を失った東京の芸人を大阪に招き、吉本の寄席に出演させた。そのために、後年まで「吉本」の名は、当時の東京の演芸界に「恩人」として刻み込まれたと言われる[14]。さらに吉本自身、大正末に関東進出を果たして以降、柳家金語楼、柳家三亀松など多くの東京の芸人を育て、また東京・横浜に多くの寄席や演芸場を開いた。とりわけ「浅草花月劇場」など、浅草公園六区の興行街に多くの劇場・映画館をオープンして、浅草の繁栄に寄与した。演芸評論家の小島貞二によれば、浅草花月は1935年(昭和10年)にオープンするや否や、浅草公園六区の観客の熱狂的支持を集め、六区の人の流れを変えてしまうほどであったという[15]。また、あきれたぼういずを育て、東京の演芸にボーイズという新たなジャンルを確立しただけでなく、東京の落語界再編にも乗り出し、落語芸術協会を立ち上げて、今日の東京落語界の興隆の基礎を作っている。そうしたことを考えるならば、当時東京に進出していた関西系興行資本3社、松竹・東宝・吉本のうち、東京の演芸界に対する寄与という点では、吉本がもっとも大きかったとも言える。, 他方、戦後は吉本が東京から一時撤退し、大阪のローカル企業としての色彩を強めていったこともあり、戦前の東京吉本の歴史を知らない東京演芸界の若い世代からは、大阪べったりに見える吉本への批判や疑問の声が飛び出すことにもなった。たとえば「人気がなければあっさり切り捨てる」という点で立川談志は「あいつらは戦前から売れねぇと使けぇ捨てるんだよ、ったく冷てぇったらありゃしねぇよ」と著作において批判している。また永六輔は江戸笑芸を徹底否定する戦略を打ち出す姿勢を問題視しており、毎日放送が大正テレビ寄席を打ち切ってサモン日曜お笑い劇場に差し替えたことに激怒。絶縁以降は自身出演のラジオ番組・自身が請け負った連載で徹底的に揶揄するほど非難している。, 吉本興業の創業者は吉本吉兵衛(通称・泰三)とその妻・せいである。1912年4月に夫婦で大阪の寄席経営に乗り出してから、吉本の歴史は始まった。1913年には、吉本興行部を設立している。吉本せいをモデルにした山崎豊子の小説「花のれん」では、この時期に吉本の経営の采配を振っていたのはせいであり、夫の吉兵衛は道楽者で経営にはまったく興味がなかったかのように書かれている。しかし矢野誠一の評伝『女興行師 吉本せい』によれば、吉本興行部主人として実質的に経営を指揮していたのは吉兵衛であり、せいはむしろ内助の功に徹していたという。ともかく、吉兵衛は1924年に37歳の若さで急死し、未亡人となったせいが経営の表舞台に立たされることになった。, しかし吉兵衛存命中の1917年、せいは実弟の林正之助を吉本興行部総監督として迎え入れている。また吉兵衛死後の1928年には、正之助の実弟となる林弘高も招いて、すでに吉本が進出していた東京・横浜地区の仕事を一任した。ここに創業家の吉本家に加え、せいの実家である林家が吉本の経営陣に登場してくることになる。, 1932年に吉本興行部は吉本興業合名会社になり、せいが主宰者、正之助が総支配人、弘高が東京支社長に就任、ここに大阪吉本を林正之助が、東京吉本を林弘高が率いる図式ができあがる。しかし戦前の東京吉本に詳しい演芸評論家の小島貞二によれば、当時の東京吉本は、形式的には吉本興業の東京支社を名乗っていたものの、実体は「吉本株式会社」として独立し、弘高が社長を務めていた。しかもこの「独立劇」自体、弘高と兄の正之助間のトラブルによるものであったという[28]。1938年には吉本興業合名会社は吉本興業株式会社に改組、せいが社長に就任するが、実際の経営は専務となった正之助が担うこととなった。, 戦後の1946年、弘高率いる東京吉本は、「吉本株式会社」として正式に大阪の吉本興業から分離独立する。この独立劇も、弘高と正之助間のトラブルの産物であったかどうかは定かではない。以後も両社は協力して力道山のプロレス興行を手がけているところから、この独立劇の背後に骨肉の争いがあったともいえない。[独自研究?

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